相談を受けたり、出張講座で質問を受けたり・・・している時、いつも思う。
「フツウ」って、なんだろう?
何を「フツウ」というのだろう?
受容段階の親御さんは「フツウにして欲しいの!」と訴える。
わかるよ・・・その気持ち。
でも、「じゃあどういう風にすることがフツウなの?」と問いかけても、
その答えは見つからない。
「フツウ」って何だろう?
皆と同じであること?
まったく同じ人なんてひとりもいないのに。
では、目立たず周りに合わせていること?
それって・・・いいことなの?
違うよね?
では、「フツウ」って何?
なんだか頭が混乱してくる。
ひとつだけ・・・わかる。
「フツウの子になって欲しい」と「あるがままの子どもの姿」を否定することは、その子の存在を否定することだと。
障がいまで含めて「その子」であるのに、その子の特徴のひとつである「障がい」を否定してしまったら、その子自身を否定することに繋がってしまうと思うから。
それではあまりにも残酷すぎる。
障がい受容のまっただ中で、悲しみや苦しみをもてあましている保護者の皆さんに伝えたい。
障害があろうとなかろうと・・・あなたの子どもは大切な子ども。
この世に「必要あって生まれてきた、大切な命」。
自分を否定したり、我が子を否定したりしないで、今、生あることを喜びあおうよ・・・。と。
我が子の存在を否定しなければならないほど追いつめられるのは、社会の在り方に問題があるんじゃないかと思う。
どんな障害を持って生まれて来ても、生まれてきたことを喜び合える社会であって欲しいと思う。
そして、将来に希望を持って、子育て出来る社会であって欲しいと思う。
「障がいがある」とは生きていくのに何かしらの不自由や妨げがあると言うこと?
だとしたら、その「不自由」をなくし、地域で暮らすのに困らないようになれば、その人は「障がいのある人」ではなくなる。
障がいのあるでも、自分の力で自立した生活が出来るのだったら、「障がいのある人」とは言えなくなると思う。
どんな人でも当たり前に自分の生活を立てられる環境があれば、この社会から「障がいのある人」はいなくなるのだと思う。
どのような子どもも大切に育み、受け入れていく地域の力が育てば、きっとそれは可能になると・・・思いたい。
障がいのある人たちの施設を建てるのに、反対運動をするような地域だなんて、情けなすぎる
環境を整えるのは大人の仕事。
だから・・・私たち大人は、障がいに対する差別や偏見のない、弱い人たちを守っていける健やかな社会になるよう、働きかけ続けなくちゃね